ARS LOCUS 大人の小学校 アーズローカス

小松眞一さんの「車いすフェンシング」四方山話 編

「車いすフェンシング」の指導をされていた会員の小松眞一さん。
携わっておられた当事者目線から、パラスポーツとしての「車いすフェンシング」黎明期から日本での競技参加立ち上げの頃について、障がい者スポーツについてのお話をお聞きしました。とても興味深いお話だったので、ご紹介いたします。
8月28日から繰り広げられるパリ パラリンピック2024での競技、選手の皆さんの応援に深みが加わることと思います。
ぜひご一読いただければ幸いです。

<日本においての車いすフェンシング黎明期>

車いすフェンシングは、障害者スポーツの中でも大昔からあり、第1回パラリンピックから正式種目になっていた。(1960年ローマパラリンピック)
小松さんが車いすフェンシングの指導を始めらた約30年前は、ピスト(車椅子を固定する台座)が日本にはなくて、みんなで車いすを持って固定させての競技だった。
指導を始めて半年くらいの頃に、パラリンピックの下にある「アジア選手権(アジアのパラリンピック)」があり、それに指導としてコーチとして、二人の選手と共に北京へ行った。
その時に、始めてピスト見た。
「へ~、こんなものがあるんや」という驚きと共に、どうして手に入れなあかんなということで、色々スポンサーを探してようやく4台のイギリス製のピストを購入し、それを持って週に1回練習し、ピストを車に積んで選手1人と一緒にイベントがあれば全国を走り回っていた。
そう、ピストを手に入れたことで、いろんな所での練習が可能になった。
極端な話、このお話を聞いているアーズローカスの4階の受付ロビーのカーペットの上でも、ピストを置いたら車椅子フェンシングができる。
健常者と障がい者が同じ条件でできる「ゴールボール」(アイマスクを装着して鈴の入っているボールを転がし相手のゴールを狙うゲーム)は体育館など広い場所が必要やけど、車いすフェンシングは場所を選ばないから。

小松さんは、フェンシングの競技者ではあったが、障がい者のことは何も分からずに入った車いすフェンシングの世界。
オリンピックでも目にした電気信号判定機がない頃は、剣道と一緒で主審、4角に審判がいて5人で判定をしていた。
東京オリンピックの選考会の頃まではそんな形、東京オリンピックの時に電気信号判定機が導入された。

東京オリンピックの1ヶ月後に東京パラリンピックが開催された。
美知子さん(上皇后)が、絶対日本でパラリンピックをしましょうという声で実現した。
そして日本からは、3名の車いすフェンシングの選手が出場した。

 

<車いすフェンシング、障がい者スポーツに関わって>

30年前、フェンシングの競技経験のある小松さんに京都市障害者スポーツセンターからの「車いすフェンシングというものがあるからなんとかしてくれへんか」との依頼が入り、車いすフェンシングの指導に携わることになった。
ただ、障がい者のことを何も知らずに飛び込んだ。
なぜ、車いすに乗っているのか。
なぜ松葉杖をついているのか、体はどうなっているのか、そんな中でどうやってフェンシングを教えたらいいんやろうか?
そこから障害者のことを必死になって勉強した。

東京パラリンピックの頃は、日本での身体障害者というのは、隔離、隔離病棟での生活なんや。
箱根にある国立療養所(現在は建物のみ現存)というのがあり、そこでの生活は一切外部の人との接触はないし、そこで何が行われているか分からない。社会がそんな状態だった。
そんな中で、車いすフェンシング競技には、障害のレベルが比較的軽い人を引っ張り込んで、1日だけマスクをつけて、剣を持たせて、こんな格好してやってこいという感じでの出場だったという。
世界中でも障害者スポーツをしている人は少なかった。
東京パラリンピック時、車いすバスケット、水泳、そしてフェンシングと3種目出場している選手がいた。動ける人しか出場できなかったから。
今現在でも、車いすバスケットの選手が車いす子マラソンに出ていたりする。
まだまだメジャーになっていない、スポンサーもコマーシャリズムにも乗らないので、競技を続けるのが難しい。

4年に1回、パラリンピック開催でブームが来るかもしれないけれど、車いすフェンシングはなくならないと思う。
ボーダレスでできる競技だから。
そもそも、本来そうでなかったら障害者スポーツは発展していかないと思う。

車椅子フェンシング(に限らず)障がい者スポーツで一番怖いのは、汗。
脊椎損傷などの障がい者は汗腺がないので、マスク、ユニフォームの下はサウナと一緒の状態。
時間を決めて競技を停めたりしないと倒れてしまう。トイレのこともひとりひとり違う。
フェンシング競技をする、技術の向上などの問題はずっと先で、まず運動が出来るから体を作ることが大切だった。
30年前、障害者がしていたスポーツは車椅子バスケットと車椅子マラソンくらい。車椅子テニスはもう少し後。
というのが、その頃は、怪我をして治療をした後、リハビリセンターで一番最初にするスポーツが車いすバスケットだった。当時はそう決まっていた。
ただ、当時は精神的にリハビリを始める以前、ベッドから起き上がれるのに半年から1年、ヘタしたら2年くらいかかる人が多かった。みんなあきらめているから。「どうせ生きていても仕方がないんや、自分は」と思っている。

自宅に帰ってきてもトイレやお風呂、食事のことなど生活する事自体が整わず、病院で、療養所などここにいといてな、ということになる。
運動も何もしなかったらどんどん痩せていき、だいたい2年半で亡くなっていく。
一命を取り留め、助かった命が、助からない状態になる。
そういう意味でも、ベッドから出て、車椅子バスケットなどをしようと思える人は精神的にしっかりしている、よく頑張ったと思うし、家族のサポート、介護というのが大きいと思う。
今は、3ヶ月くらいで車椅子に乗っている。

1990年の北京で行われたアジア大会から戻ってきて、世界の車椅子フェンシングのレベルはものすごい高いところにあるから、お遊びでするんやったら良いけど勝とうと思ったら大間違いやでと報告した。
この時、日本で居残っていた選手が8人いた。
2年後、その8人の選手が「わたしたちも試合に出たい」との希望があり、香港の大会に行った。
でもその頃は、協会などはないから、すべて自己負担という現状だった。そして出場すること自体も難しく、準備に半年を要した。

まず、当時は飛行機の車椅子の搭乗枠が2人分だけだった。というのが、不測の事態があった場合、脱出などをサポートする乗務員の人数が難しかったから。
そんな中で8人を飛行機に乗せたい。
当時、日本航空の会長に頼んで、大阪支社に「行って、帰るまでお願いしたい」と相談したら、OKが出た。今は何人でも大丈夫になった。
当時は必死だった。京都駅でも関空でもけんかしていた。
車椅子での搭乗予約、チケットも持っていて、「車椅子に乗っているんや」と行っても、「車椅子は通せません」と言う応え。まだ、、車椅子にのる人たちをどうやって飛行機に乗せるかというシステムができていなかった。そこから作っていかなければならない必要があった。
大会に出場する度に、搭乗、渡航など全体のパッケージの打ち合わせをする必要があった。最初の5~6年はけんかばっかりだった。

3年目にドイツに飛んだ。往路の出発までは前例のごとくそんな感じ。
フランクルフトに降りて、タラップから降りた選手を連れて行ったら、どどどど~とドイツの兵隊さん達がやってきて、「俺らに任せておけ。キャプテンならチケットを持って先に手続きへ。選手や荷物は俺らがやるから」と。
「嘘やろ……」とうれし驚きの待遇だった。
入管でも全部フリーパスで行けた。あまりの違い。

もう、ちゃうねん。これが障害者をめぐるシステムの違い。その時に、日本は20年遅れていると説明した。この規模でのサポート、それを当たり前でやってくれるシステムを目の当たりにした時、「これはあかんわ、こういう所の選手には勝てへんわ」と思った。
ドイツの大会に行き、あまりの現状の違いを見たし、選手たちも見た。僕らも勉強して良かったなと思ったけど、「これは日本ではちょっとやそっとではできひんな」と思った。
「まだまだ障害者スポーツやっています、なんて言えるもんじゃない」と。
当時そう思って、そんな状況からちょっとずつちょっとずつ、30年近く指導を続けてきて、とても難しかったけれど、前に進んでいると思いたい。

今、ワールドカップなどで見られるように、障がい者スポーツを支える技術やメーカー、スポンサーなどの意欲でずいぶん道具が進歩してきている。
が、注意してもらいたいこともある。例えばメーカーやスポンサーの心意気でカーボン製で高性能な義足を出来上がっても、実はその精度の高い義足と選手のコンディションのバランスが取れなければ、選手の体に大きな負担をかけるということ。

サポートする体制、選手との関わり方、それらに支えられて表に出ている競技を含んだパリ パラリンピック2024を見ていただければと思います。

2024.8.28 小柳